■ 座禅プロジェクト(2012年12月29日)
12月に入り、そろそろ年末行事の計画を立てようと思っていると、愛川町の某寺院で坊さん修行を積んでいる旧友I君から「中学仲間の新年会」へのお誘いの電話を受ける。帰省と日程が重なり新年会には顔を出せないと断わるも、先日善光寺で宿坊体験をしてきた話をすると仏教トークに花が咲く。口が滑らかになった勢いで、『年末座禅会やってもらえないかな?』とお願いすると、「旧友のよしみでなんとかしましょう。」と嬉しい返事。こうしてI君のお寺で座禅会をする話がまとまった。 ここで立ち上がってくれたのが座禅を最も心待ちにしてくれていた海老高のガンジーことゴッチャンであった。厚木市中荻野にある「養徳寺」の住職さんとうまく交渉を進め、年末行事の12月29日14時から1時間の予定で座禅会を開催してもらえる運びとなった。
当日の午前中は例年通り及川球技場でフットサル、ガストで昼飯を食べた後、養徳寺の門を叩く。30分事前説明の後に30分座禅を行うと聞いていたが、事前説明は数分であっさり終わる。「初めての方にいきなり30分の座禅はキツいので、今日は短いのを2本やります。座禅堂での方が説明しやすいので早速参りましょう。」と言う住職さんに続き、靴下を脱ぎ座禅堂(本堂)に足を踏み入れる。 入室方法、座る順番、あぐらの姿勢、手の組み方など宗派毎に様々な流儀があるようで、それぞれの説明を受けるがとても複雑で覚え切れない。「まあ今回は皆様初めてだそうで色々気になさらずにやってみましょう。」とのことで、住職さんと1列に並び、鐘、拍子木の合図で座禅開始。 折角の機会なので真剣に瞑想体験に挑もうとするが、何も考えないようにすればするほど、時計や風の音、畳のお大きさや配置、寺の造りなどに次々と意識が向いてしまう。過剰なアウトプットを求められ続ける日々の中、突然アウトプット回路を閉ざされる非常事態に体内で暴動が勃発。身体の穴という穴から色々なものが今にも飛び出しそうな感じ。想定外の苦しさに人間には自ら考え行動を起こそうとする力が備わっていると強く感じる。 『ふー、これでやっと半分か、、、。』
痺れて感覚の無くなった足を投げ出そうとすると「基本的に坐禅堂では休憩中でも足を投げ出しはしません。」と怒られてしまい泣きたい気分で足を組み直す。「次は棒を持って本堂内を回りますので、眠くなったり気持ちを引き締めたくなった方は私が前を通る時に合掌で合図してください、、、」と住職さんが説明する間に足を緩めたり腰を浮かしたりして痛みを取ろうとするが、ほとんど効果を得られぬうちに鐘、拍子木が鳴り2回戦に突入。
「バシン、バシン!」静寂な堂内に響きわたる叩き棒の音。予想通り開始早々叩いてもらっている物好きなテルとナミオチャン。僕は彼らのように叩かれる趣味は無いものの足の痛みしか考えられぬ状況から抜け出そうと叩いてもらう。短くて柔らかい初心者用叩き棒でダウンジャケットの上から叩かれたため大きな音の割に痛くはないが、不思議と邪念が取り払われた気分。 「無心になれない場合は、自己の行いを振り返ったりこれからの目標を考えてみるのもいいでしょう。」という住職さんの説明に従い2回戦では今年の反省と来年の目標設定に頭をひねる。 今年はそれなりに充実はしたが、それは子供の成長や自分の無気力化に焦りを感じて無理矢理行動を起こした感が拭えない。来年は先程の座禅で感じたような自分の中から自然に湧き上がる力や心の声に従い、自分が本当にやりたいことを見つけていこうなどと考えるうちに拍子木が鳴り2回戦終了。
「終わった〜!」終了の余韻に浸りつつ、住職さんが立ち上がるのを待つが一向に動き出す気配がない。すると突如鐘と拍子木が鳴り、まさかの座禅3回戦がスタート。『聞いてないよ〜!』 住職さんが( 無心になるあまりに)間違えて3回戦をはじめてしまったのではないか?という疑念が膨らむも、これは「予想外の事態に動じてはならない」という住職さんの意図によるものだと考え直して再び座禅に集中。だが、一旦途切れた集中の糸は元には戻らず、ついつい(住職さんの目が届かない位置に座っているのをいいことに)自分同様動揺しているであろう友人の表情を横目でのぞき込んでしまう。だが、右隣のアベチャンも左隣のジョーも仏のように無表情で全く動じている様子はない。この6人で自分が最も未熟な人間に思え、劣等感を噛み締めるうちにようやく拍子木が鳴り座禅終了。 別室に移動すると「みなさん疲れたでしょう」と住職さんがお茶をもてなしてくれる。住職さんはかつて会社勤めをしていたらしく、いじめにも似た座禅道場での出来事と会社でよくあるような出来事を対比しながら分かり易く解説してくれる。 いつになくイキイキとした表情のゴッチャンが「悟りとは何でしょう?」と住職さんに尋ねると、『分かり易く言うとゼロのことです。』と、僕には全く分かりにくい回答。ゴッチャン同様宗教好きのジョーが「人間最後はゼロになると言われてしまうと、毎日上を目指して頑張ることが無意味に思えてしまうのですがその辺りはどうなのでしょうか?」と尋ねると、『それはゼロという話とは別と捉えてください。求める気持ちは大変素晴らしいもので、いつまでも持ち続けなければなりません。』と回答、ジョーとゴッチャンは「なるほど」とうなずいている。 良く分かるようでいて分からない会話を聴いていると対面に座るテルが、「時計を見てみろ!」とモーションを送ってくる。1時間の予定が2時間半が過ぎているのは重々承知だが、これはこれで有意義の時間に思えて気付かぬ振りをしていると、次第に露骨になるモーションは分かり易いジェスチャーに変わり思わず笑いが込み上げる。 どうやら住職さんはこちらが納得して話しを切り上げるのを待ってくれているようで、あまりに長い時間を割いてもらうのも申し訳ないとゴッチャンが封筒に入れた僕ら6人の志を渡して養徳寺を後にする。足が痛くて想像以上に辛かったが、いかにも日本人らしい年末を送ることができた。 [座禅プロジェクト 完] |