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■ ファミリー読書奮闘記

本をたくさん読むために、子供にたくさん読ませるために、、、

40代が近づくにつれ、今まであまり本を読まないできたことを後悔することが多くなった。年相応の知識や深い感情を持たぬ未成熟な自分から脱皮するために、そして、子供に自分と同じ轍を踏ませないために、こんな奮闘記をはじめてみました。


1. 本を読まなかった過去
 まずは自分が本を読まなくなる経緯を振り返ってみよう。

(1)小学生時代
 平仮名を読めるようになった頃、隣ですらすらと本を読む3つ年上の姉とのあまりにも大きな読書力の差に「自分には本は向かなそうだ」と思ったのが本嫌いになる始まりだった。本を読む姉を横目に「こっちの方がずっと面白いや!」とテレビばかり見ていた。

そんなまっち少年にとって、唯一本と向き合わねばならぬ、夏休みの読書感想文は脅威であった。
夏休みになると両親が読書感想文用の本を買いに書店に連れて行ってくれるが、活字で埋め尽くされた本にはまるで興味が湧かない。ページをペラペラとめくり、巻末のあらすじや説明文、挿絵だけで感想文が書けそうな本を探すが、今年の1冊をなかなか決められぬまま時間だけが過ぎていく。
大抵最後は痺れを切らせた両親に「これがいいじゃない!」と本とお金を渡されレジに向かうのがパターンであった。

買ったは良いがそもそも自分で読む気は無くいつもの姑息な作戦を決行することとなる。
本好きな姉の目のつく場所にそっと買った本を置き、まるで魚釣りをするように姉が本を手に取るのを陰から見守る。姉が食い付くとそのまま泳がし餌を喰い尽くす直前に自分は既に読み終えているかの如く話し掛ける。

「この本面白かったでしょ。」

感想を語る姉の言葉と、頭の中にあるあらすじや挿絵を必死に組み立てる。

「そうだよね。僕もそう思ったよ。」

姉から聞いた感想で、所定の最低文字数ぴったりに原稿用紙の枡を埋め、今年も本を読まずに感想文を完成させる。こんな風に「文学に親しむ」という体験を全く味合わぬまま僕の小学生時代は過ぎていったのであった。




(2)中学生時代
 本からの逃避生活がたたり、小学校低学年レベルの国語力しか持たぬまま小学校を卒業した。中学に入っても本を逃け続け、やがてそれは「国語力の無さを素直に認めたくない気持ち」や「第2反抗期特有の大人への反抗心」と結び付き、

『本を読むことは、現実に目を向けない根暗で愚かなことだ!』
『本に書いてある読んだだけの知識なんて本当の知識じゃない!』

と開き直り自分を正当化するようになった。そして気付けば本を読まないことは自分のポリシーだと堂々と言うようなおかしな方向へと進んでいった。

では、当時の自分はなぜこれ程までに本を避け続けたのだろうか?
この問題を解く鍵となるのが当時心に根付いていた「感覚重視」という考え方だ。

当時の若い自分は、物事を論理的に捉えるよりも感覚的に捉える方がほとんどの場合で優れた判断が下せると信じていた。筋道立った論理的な意見を述べる大人達を回りくどく考え過ぎだと感じ、自分は研ぎ澄ました感覚や感性で的確な意見を言える大人になりたいと考えた。
そのためには、小説のような長い文章を読みロジカルな思考を身に付けるよりも、色々なものを見たり経験したりして感性を磨く方が重要だと考え、『感性を磨くため』という都合の良い言い訳のもと、勝手気ままな日々を送っていた。
こうして本と向き合うこと無しに僕の義務教育時代は終わるのであった。

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  論理的な考え方や地道な努力が感覚を磨くための重要な要素であると気付くのは、かなり後になってからであった。



(3)高校生時代
 当時の感性重視のまっち青年は流れる歌の歌詞(特に松井五郎が書いた安全地帯の歌詞)を好んで聴き、繊細な気持ちを短い言葉で端的に表現する彼の鋭く豊かな感性に舌を巻いたものだった。
また、読書不足を埋め合わせるかの如くラジオのDJ(特にロックバンド「エコーズ」のボーカリスト「辻仁成」の深夜放送)の訴えかけてくる言葉に耳を傾け、そこから何かを学び取ろうとしていた。

本を読まない分、彼らの独特な世界観や語りかけてくる言葉はすんなりと心に染み入り、気付けば人格の一部を形成していた。
彼らの言葉は、頭の中にある漠然としたイメージをまとめる手伝いをしてくれる後ろ盾のような存在となり、迷いを振り切り行動を起こす拠り所となった。そして、迷った時などにひょっこりと現れては爆発的なエネルギーを授けてくれたり、解決の糸口を指し示してくれた。

しかしながら、文法や道徳などお構いなしに書かれた歌詞や、偏った個性が前面に押し出されたDJの言葉ばかりを聴き続けたことは弊害も生じさせた。
周りから 「夢見がちな意見を小学生なみの国語力で語る常識のない変わった人」と見られるようになり、そのうちに理想とは程遠いそんなキャラクターに慣れてしまうのである。自分の発想、感性に他人とずれを感じたり、成長が止まったような気がするようになるのも丁度この頃であった。

こんな生活を送るうちに高校3年に進級、本(国語)が苦手という理由で理系コースを選んだ。これで本から逃げ切れたと胸をなで下ろすが、小学生レベルの国語力しか持たぬため理系的な順序立てた考え方もできずに成績は伸び悩んだ。

『今の僕には(授業を聞くよりも)本を読むことが必要かも?』

と薄々感じるも、進路の決断を迫られる日々に実際に本を手に取ることはしなかった。自分の個性を急いで探すあまり『芸術方面にでも進めば活路を見い出せるのでは?』と進路を探り、工業デザインという何とも中途半端な道に進んでしまうのである。



(4)高校生時代 番外編
 自由に使える金などほとんど無く、車の運転や飲酒も認められていない非力な高校生にとって「想像力」は数少ない頼れる「飛び道具」の1つであり、当時毎日のように聞いていた安全地帯は、この「飛び道具」の能力を格段に高める効果があった。

松井五郎や井上陽水の書いた「心の奥に眠る情景や感情を呼び起こすような歌詞」は、玉置浩二の作る美しいメロディーや卓越した歌唱力と見事に融合し、聴く者を歌の世界へと引き摺り込んだ。時間や空間の概念を破壊し、痛みや悲しみ、感動や勇気を、まるで現実のもののように鮮やかに、そして生々しく提示してくるのであった。

「真夜中過ぎの恋」「マスカレード」で危険な恋を体験し、
「あなたに」「ガラスのささやき」で孤独の楽しみ方を学び、
「情熱」「I LOVR YOUからはじめよう」にPOWERをもらい、
「ゆびきり」「パレードがやってくる」で幼少期に戻り、
「夢のつづき」「朝の陽ざしに君がいて」で将来を夢見て、
「青空」「あの頃へ」で緑の風と戯れ、
「氷点」「冬CITY-1」で北国に旅に出た。

当時のまっち青年は安全地帯を聴きながら、「現実の世界」と「(読書で得られるような)空想の世界」の間に浮かぶ独自の世界に(逃げ込むように)度々「トリップ」していた。
「読書奮闘記」の大筋から反れてしまうが、当時好んで聞いていた、安全地帯の「あのとき....」の歌詞を引用し、この「過去の過ち」を検証してみよう。

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あのとき....   作詞:松井五郎 作曲:玉置浩二

夜風のいたずらのように そっと指に触れた
とまどいをふりきり きみは答えたね

あのとき 愛しさを 言いかけてやめたけど
あのとき ためいきで ふたりむすばれた

遠ざかる季節の落葉が ふいに時を告げた
帰したくないのに 指を離してた

あのとき もしぼくが 心をうちあけて
あのとき もしきみが もっとさみしくて
あのとき あと少し 瞳をみつめたら
あのとき ぼくたちは なにが変ったの

この歌はあのときもしきみが、、、あの時もしぼくが、、、というフレーズが繰り返され、ぼくたちはなにが変ったの?という問いかけで締め括られている。

この「懐かしくせつない歌詞」に「記憶の中の後悔」が共振し、ノスタルジックな感情の振幅が一気に増大、まるでビデオテープの再生ボタンが押されたように、脳裏に過去のシーンが甦る。
『あのときもしぼくが、、、していれば、きっとAと付き合っていたはずだ』
と過ぎ去りし日々を思い返していた。

何十回とこの歌を聴くうちに、まるで玉置浩二の歌声に導かれるかのように記憶の樹海へと足を踏み入れてしまう。そして気付けば樹海に散らばった人骨を集めるかのように記憶のカケラを探し出しては繋ぎ合わせ、足りないパーツを逞しい想像力で補いつつ、実現できなかった理想像を組み立てはじめていた。

『僕がAと付き合うことによりBはCと付き合い、Dは、、、』と、自分の過去を舞台にまるで物語でも作るかのように理想の世界を拡げてみたり、
『いや、まてよ、Bの優しい性格を考えるとやっぱりCとDが付き合うのが正解だ』
と、描いた世界の細部の作り込みに没頭したりするのであった。

そして「夢のようだった現実」と「現実のような夢」の境界線は次第にぼやけ、 大いなる虚像を築き上げてしまい、僕の歩んできた1本であるはずの道の周りにはいくつもの枝分かれが、まるで脳内に張り巡らされる血管のように拡がっていった。

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この、安全地帯の「あのとき....」は、『もしも』について思いを巡らす癖を僕の頭に強力に植え付け、

「もしも、こんな学部に進学したら....」と将来の姿を思い描いてみたり、
「もしも、あの娘がこんな話をしたら....」
と電話の台本を書いてみたり(笑)、
「もしも、こんなオーディオセットがあったら....」
と理想の製品を考えたりしていた。

「もしもの世界」を思い描くことは、いざそうなった時に落ち着いた対応を引き出してくれたり、楽しさや、夢や希望、洞察力を与えてくれたりと良い面がたくさんある。しかしながらかつての自分は「あのとき....」という過去に「もしもの世界」を展開してしまったのが大きな過ちであった。

バンザイダート監督が「人生回転寿司理論」で熱く語っているように、重要なのは寿司が流れてくるまでの心構えと、目の前に来た皿に手を伸ばすかどうかの決断だ。 過ぎ去った寿司のことをグズグズと考えても過去は決して変えられない。人生という道の選択に間違えたと気付き慌てて来た道を引き返しても、そこにあったはずの交差点はもうなくなっているのだ。
必要なのは引き返すことではなく、前進する中で軌道修正をして活路を見い出していくことなのだ。

そんなことを考えるうちに、大好きだった「あのとき....」が、妙に後ろ向きな有害ソングに思えてきた。

私、まっちはここに宣言します。

『過去の「もしも」は、もう探しません。』

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蛇足となりますが、上記「あのとき....」を紹介しようとYOU TUBEを探すうちに、安全地帯の魅力が伝えられそうないい動画があったので御紹介します!(下記青字クリックで動画サイトに飛びます)

・ 嘲笑(玉置浩二&ビートたけし)
・あの頃へ(安全地帯&和太鼓)
・好きさ(思いつめれば狂ってしまいました)

動画を見てくれた方、どうもありがとう。ついでに、山下達郎が「日本で最も過小評価されているアーティスト」と語り、ミスチルの桜井和寿が「天才」と語る玉置浩二の作曲風景を覗いてみましょう。

・微笑みに乾杯(作曲風景)
・打ち合わせなし3曲(玉置浩二&タモリ)

あれっ、読書奮闘記のつもりが安全地帯布教奮闘記になってきたぞ(笑)



(5)大学時代〜現在
 高校時代、感性の鋭さを賞賛していた辻仁成が小説を書いたかと思うと、文学界の登竜門と言われるすばる文学賞を受賞した。身近に感じていた彼の文学界での活躍は、今まで自分とは無縁であった文学を身近に感じさせ、作家に対する「現実脱落者」のような暗いイメージを、「クリエイティブな表現者」というカッコ良いものへと変えた。

『まっちはちろん仁成の本読んだんでしょ。』

と言う友人の言葉に背中を押され、彼の処女作「ピアニシモ」を購入し読んでみる。 彼の小説は、彼が率いるロックバンド「エコーズ」で彼が発信していたメッセージを、分かり易く表した解説書のようで、聞き慣れた彼の歌に通じる小説の世界観に浸り、最後まで読み進めることができた。

丁度読み終える頃次の著書「クラウディ」が発売される。どうせ彼の執筆活動も2〜3冊で終わるだろうとこの本も購入して読んでみる。意外なことに彼の執筆活動は途切れることなくハイペースで続き、スカスカだった本棚は彼の本で埋め尽くされ、本への苦手意識は薄れていくのであった。

しかし、せっかく本アレルギーが無くなったのも束の間、会社勤めと共に本を読む余裕がなくなり(仕事関係以外の)本を読まない生活へと逆戻りしてしまうのである。


2. 友人の勧め
 30代も後半に差し掛かる頃には、すっかりかつての本嫌いの自分に戻っていた。 そんな中で参戦した2008年ママチャリGPで、高校同窓生のテルに「自転車少年記」という本をぜひ読まないかと勧められる。「本」と聞くだけで反射的に否定的な言葉が口を出そうになるが、僕の性格を熟知した親友の助言だけに素直に耳を傾け、唯一の自由時間である通勤電車でこの本を読んでみる。

「なんかいいかも♪」

久しぶりに読む本への印象は学生時代のそれとは全く違っていた。
見る物全てが新鮮で自由に満ち溢れていた学生時代は、読書は時間を浪費する後ろ向きな行為にしか思えなかったが、仕事だけで毎日が過ぎ去る今日では、読書は日々に刺激や彩りを加え本来の自分を取り戻してくれる前向きな行為に感じられた。

また、忙しい日々のちょっとした隙間に本を割り込ませることは、仕事や人間関係のモヤモヤを一瞬で頭から追い出し気分をリセットし、新しい発想や全く違う視点に気付かせてくれるメリットもあるようだ。

生活時間の大部分を仕事に費やすことが避けられず、どうせたいしたことなどできないこんな時期こそ本を読むのにぴったりのように思えてきた。

『決めた!この先の10年間は、今までの借りを返すつもりで本を読みまくるぞ!』


3-1. 読書の目的と目標 (まっち編)
 10年間読書治療(笑)に励むと決めたが、読書の方針がぶれぬよう読書の目的を下記3項目にまとめてみた。

(1)一般教養の修得
社会人として当然身に着けていなければならぬ、読み、書き、会話、礼儀作法等を(今更ではあるが)しっかりと身に着けたい。

(2)幅広い視野の獲得
様々な分野の小説や評論を読み、幅広い知識を吸収し、鋭い判断力や洞察力を身に付けたい。

(3)自分らしさの確立
好きな作家の好きな小説を読み漁り、楽しみながら自分らしさを深く掘り下げ、自分の武器として確立したい。

これらの目的の達成を目指し、小説・評論・エッセイ等の活字で満たされた本を(週1冊のペースで)『年間50冊読破する!』と目標を立て、読書生活1年目のスタートを切った。


3-2. 読書の目的と目標 (子供達編)
 上記の読書の目的『一般常識の修得』『幅広い視野の獲得』『自分らしさの確立』の3項目は、そのまま「子供に身に付けさせたいもの」と言い換えられる。
「読むべき時期に読むべき本を読まず人間としての土台を踏み固められずに、その不安定な土台の上にひたすら積み上げた個性が、社会に出て土台もろとも崩壊してしまった自分の苦い経験」を無駄にしないため、子供達にはぜひ本を読む習慣を身に付けさせたい。

そんな強い思いから、子供にも自分と同じように年間50冊読破の目標を立てさせようかと考えてみるが、親が一方的に立てた目標を強制するのはちょっと違う気がして方針を転換。

『パパが今読んでいる本はね、、、』

と何気なく本について語り、子供に本への感心を引き出すことから始めてみようと思う。


4-1. 2008年読書の結果 (まっち編)
 読書生活1年目(2008年)は、某古本チェーン店の100円文庫本の書棚から、目に付いた本を適当に選び50冊の目標を達成した(ページ総数12999頁)。読んだ50冊のリストはこちら(赤色セル(3ポイント)がオススメです)

これまでほとんど本を読んでこなかった自分にとって、読書から得られる知識は新鮮で、ここ数年ほとんど感じることができずにいた人間的な成長を久々に感じられる1年となった。しかしながら、決して自分が戻ることのできない若者が主人公だったりする時代の小説にはかつての愚かな自分を思い出させる副作用があり、「どうしてもっと若い頃に色々な本を読まなかったのだろう」と強い後悔に見舞われ、しばし放心状態になったりもした。
2009年も引き続き年間50冊の目標に向かい、色々な分野の本を読もうと思う。

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4-2. 2008年読書の結果 (子供達編)
「子供は親の言葉ではなく姿を見て育つ」とよく言われるが、なっち(小2)は今年1年図書館で100冊以上の本を借り、着々と本好きな子に育っているようだ。
まっちの読んだ上記50冊のリストのデータは、なっちに収集してもらったが、「パパこんなに本読んだんだ」と楽しそうに本のタイトル・作者・ページ数を記録してくれる姿が印象的だった。まだひらがなが良く読めないそうちゃん(年中)にはひらがなを教える所から始める必要がありそうだ。


5-1. 2009年読書の結果 (まっち編)
 今年も50冊の目標を達成(ページ総数13699頁、前年比105%)。読んだ本のリストはこちら(赤色セルがオススメ。今年はひとこと感想もつけました)

昨年は頑張って何とか50冊を読んだが、今年は気付いたら50冊を読んでいた。通勤時間は自然と本を開けるようになり、まるで本を読むついでに通勤しているかのような貴重な時間となった。来年もこの調子で引き続き50冊を目標に本を読もうと思う。

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5-2. 2009年読書の結果 (子供達編)
 いつの間にかなっちは筋金入りの読書好き少女となっていた。お気に入りはハリーポッターで、「賢者の石」「秘密の部屋」「アズカバンの囚人」「炎のゴブレット(上)・(下)」の5冊を読破、現在「不死鳥の騎団」を読んでいる。

一方そうちゃんは、そんなお姉ちゃんにどうせ敵わないと諦めモード、本嫌いになりつつある。

「あれ、今のそうちゃんって昔の自分に似ているぞ

なっちはもう放っていても本を読むので、来年はそうちゃんを本好きにするよう気を使っていきたい。

 


6-1. 2010年読書の結果 (まっち編) 
 2010年も50冊のノルマ達成、読んだ本のリストはこちら(赤色セルがオススメ)。年間50冊のノルマを課して今年で3年が経過、ここへきて漸く読書の習慣が完全に根付いたと言えそうだ。

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6-2. 2010年読書の結果 (子供達編)
 なっちは何も言わなくてもたくさんの本を読むようになったが、そうちゃんは本を読ませようとしたのが逆効果となり本嫌いになってしまった。ひらがなも満足に読めぬまま小学校に入学したそうちゃんは、このままではさすがにまずいと思ったようで、ゆっち監修のもと毎日音読をするようになる。そして1年間ほぼ休まず音読を続けた結果人並みのスピードで本を読めるようになり本アレルギーも治まりつつあるようだ。今後もできる限り音読は続けさせようと思う。

 


この続きは「読書プロジェクト」に記載します。

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