11. 東北道サイクリング編
東日本大震災から1年後、2年後の被災地は、、、 1. 福島〜松島サイクリング2012 (2012年4月21日〜22日) (1)旅行の計画 高校同期で参加した多摩川リバーサイド駅伝2012の会場で「あなたが遊びに来てくださること。それが、ふくしまの私たちにとって何よりのエール」とメッセージが書かれた「ふくしまからありがとうキャンペーン」のパンフレットが配られ、福島復興支援の物産店や飲食店の屋台が軒を連ねていた。これまで被災地に観光に行くのは復興の妨げとなる迷惑なことだと思っていたが、震災から1年が経過した今、被災地に関心を寄せ現地に赴く(=お金を落とす)のは現地の活性化や復興に繋がる好ましいことだと知り東北に行きたくなってくる。 駅伝後の飲み会の席で、東北観光サイクリングの話を出すと、テル、ゴッチャンが賛同してくれ、せっかくだから就職して以来ほとんど交流が途絶えている仙台に住む同窓生フユチャンの家に寄る(できれば泊まらせてもらう)話が持ち上がる。 『まっちフユチャンと中高一緒だったんだから電話かけてみてよ!』 フユチャンには毎年年末同期会へ誘うも断られ続けているので 、一瞬躊躇するも、高校卒業前後に海や公園で夜通し語りあった濃厚な日々に決して嘘はないはずだとダイヤルを回す。 「おお久しぶり!ぜひ杜の都仙台に遊びにおいでよ。仙台には単身赴任で来てるのでホテル代わりに泊まってくれても全然OKだよ!」と20年のブランクを感じさせない返事に話はトントン拍子に進み、福島〜松島観光サイクリングに行く話がまとまった。 いざ福島を自転車で走るとなると福島第一原発の放射能飛散が気になり調べてみると、放射能が福島市内に流れ込んでいるではないか。だが放射線量(測定できるガンマ線空間線量 )は多く見ても1時間あたり数マイクロシーベルトで、数時間浴びるだけなら外部被曝は気にしなくても良さそうだとサイクリング当日をむかえた。 (2)福島駅〜角田区間 7時18分上野発の新幹線「MAXやまびこ123号」に乗り、大宮駅乗車のテルと車内で合流。8時52分に福島駅に到着し、駅前広場の片隅にある松尾芭蕉と河合曾良の銅像前で自転車を組み立てる。 街を歩く人に放射能を気にする気配はほとんど感じられないが、「外部被曝は心配ないと思うけど、服などに着いた放射能を口から吸い込み内部被曝してしまうのが心配」と、レインコートを着て荷物をビニール袋で覆っているテルを見ているうちに、こちらも不安になってくる。輪行袋を広げているこの道端が雨水が流れ込み放射能濃度が極端に高くなったホットスポットのようのようにも思え、目に見えない放射能の怖さを感じながら福島駅を出発。 阿武隈川サイクリングロードに入ると、野球やサッカーに精を出す子供達の元気なかけ声が響き渡る。罪なく放射能に曝された生活を強いられている子供達(さらには何も知らずにこの土地にこれから生まれてくる子供達)を思うと、原発事故を起こしてしまった僕ら大人達の罪の大きさに胸が痛くなる。回収不能となった地中の燃料棒から今も放射能を垂れ流し続けているであろう福島原発の問題については思う所がたくさんあるが、切りがないので止めておこう。(原発問題に興味のある方はこの動画を見てね。) 東京では2週間前に散ってしまった桜が咲き乱れるサイクリングロードを反れ、阿武隈川・武隈急行線と並走する国道349号線を北上。次第に車通りや人影が消え国道とは思えない対面通行の寂しい山道となるが、道端の所々には手入れの行き届いた花壇があり、ラッパ水仙などが色鮮やかな花を咲かせている。ほとんど人の目に触れないであろうこれらの花々眺めるうちに、『自分だけでも綺麗な花の咲くこの風景を目に焼き付けねばならぬ!』という妙な使命感にが生まれ、時々止まっては東北の方々の温かさを感じながら県境を越え宮城県に入る。 道幅の戻った国道349号線の緩やかな下り坂をのんびり走るうちに角田市に入り、台山公園で日本初で初めて打ち上げに成功した純国産H-2ロケット実物大模型を見学。全長49mの大きさに驚きつつ、毎週TVアニメ宇宙兄弟を楽しみにしている子供達に見せてやりたいと感じながら公園近くのコンビニで昼食。 【走行データ】 (3)角田〜仙台駅区間 角田を過ぎ国道4号線に入ると、追い風の影響もあり一気に距離が伸びる。このまま4号線を走れば仙台だが、震災の爪痕を見ようと県道20号を左折し、海岸寄りのルートを選ぶ。 仙台空港を過ぎると、積み上げられた瓦礫やなぎ倒されたフェンス、大破して道路に置き去りにされた船などが目立ち出す。これまでTVの中でしか見たことのない景色を目の当たりにしてはじめて津波や地震が実際に起こり、多くの命を奪ったことを実感する。 「よう久しぶり!元気そうじゃん!」 (4)仙台の夜 活気ある商店街アーケードを抜け、フユチャンお勧めの「元祖牛たん居酒屋 集合郎はなれ」で、牛たんや地元の魚貝類などの美味しい夕食を食べながら積もり積もった話に花を咲かせる。 3人でこうして腰を据えて話すのは、十代の終わりに野沢温泉にスキーに行って以来であり、今回初めて聴くフユチャンの就職・結婚してからの半生の話に引き込まれる。「京都、三重、福井、盛岡、仙台への転勤を受け入れつつ今の地位を獲得するまでの苦労話」や「故郷厚木の自分が通った小学校に我が子を通わせるまでのいきさつ」、「家族に安定した暮らしを与えつつ単身赴任生活を送る複雑な心境」などの話をきっかけに、仕事や家庭、人生に対する3人3様の考えをぶつけ合う。自分と全く違った業界で奮闘する親友の体験談や自分のバックボーンを知り尽くした上での助言はとても参考になり、自分の甘さや未熟さと向き合い、10年後、20年後について考える良いきっかけとなった。 裏通りにひっそりと建つレトロな銭湯「かしわ湯」で汗を流し、21時過ぎにフユチャン宅に到着。部屋に入ると「これ仙台名物の海老とホタテの揚げかまぼこなんだけど、仙台来たからにはぜひ食べてみてよ!」と僕らをもてなしてくれたり、「長距離を走って疲れたでしょう!」と2セットの布団とじゅうたんやクッションで何とか3人が快適に寝られる方法を考えてくれるフユチャン。予想外の優しい心遣いに、ジャイアンに優しくされるのび太とスネ夫になった気分。 完全に忘れていたかつての自分の恥ずかしい行動や、当時の交友関係、高い理想、屈折した心模様などを掘り起こすうちに高校時代の苦い記憶が蘇る。『クラスの半数がいくつもの落とし穴をスマートに避けて歩く中、夢や恋愛への理想や拘りを捨てられずにいちいち落とし穴に落ちては悩んだり迷ったりしていたこと』『そんな苦しい状況下で出会い、溜まったストレスを燃焼させるかのように共に行動していたこと』などを振り返るうちにあることに気付く。 「あれ、高校時代も今も実はあまり変わってないんじゃないの?」 『仕事や家庭への理想や拘りを捨てられずにいちいち落とし穴に落ちては悩んだり迷ったりする苦しい状況の中、時々集まっては溜まったストレス燃焼させるかのように共に行動している近況』は確かに高校時代とあまり変わっておらず、あの時代に自分の核となる部分が創られていたことを再確認。 【走行データ】 (5)仙台観光 翌朝遅めの起床。2011年3月11日震災当日のフユチャンの被災体験談を聞きながら朝食。『ニュースでは流れなかった治安悪化した街の様子』や、『家族の安否を心配しつつも仕事に手が離せない焦り』、『集団避難場所での家族との再会』など、どの話も興味深く食事を忘れて引き込まれてしまう。フユチャンの十八番「演劇風トーク」も健在で、このまま聞いてき続けていたい気になるが、折角仙台に来たからと青葉城の名でも知られる仙台城へ自転車3台で向かう。 眼下に広がる仙台市街を眺めながらフユチャンの興味深い持論「はりぼての街仙台論」を聞いていると、伊達政宗像下に「伊達武将隊」が現れ仙台にまつわる話をクイズを織り交ぜ面白おかしく説明してくれる。「そこのお兄さん背が高いねえ!」とテルに気さくに声をかけたりする軽やかな語り口調に、何だか変わった人達だと思いつつ、ついつい最後まで彼らの話しを聞いてしまう。 そろそろ松島を目指さねば辿り着けなくなると地図で道を確認していると、なでしこジャパンマニアのテルが「仙台に来たからには左サイドバック鮫島彩の母校「常盤木学園」は外せないでしょ!」と凡人の僕らには理解に苦しむ発言。 「正門の前で写真撮ろうよ!えっ、一緒に写らないの?せっかく来たんだから、、」 といつもにも増して饒舌なテルに爆笑しつつ、
テルの旺盛な行動力が「俺、職員室に行って鮫島チャンのこと尋ねてくる!」なんて言い出すのを恐れ、足早に正門前を去り松島に向かった(笑)。
追い風の中を快調に飛ばしR45を北上、所々に震災被害の残る多賀城・塩釜を越え、バイクに乗り換え追い掛けてきたフユチャンと松島手前で合流。フユチャンお薦めの「さかな市場」に入り遅めの昼食。 原発事故の影響で定価の1/3まで値引いてくれるあら汁やいくらねぎとろ丼、ぶっかけラー油まぐろ坦々麺を食べていると、フユチャンが家から保冷バックに入れて持って来てた冷えたビールと笹かまを御馳走してくれる。優しい心遣いに涙が出そうになるのを堪えつつ今回の旅行最後の飯を堪能していると、ガイド本に載る人気メニューだからと、牡蠣バーガーを追加注文するテル。確か同じ口が昨日「内部被爆には注意が必要」と言っていたような、、、 3人で五大堂を観光の後、松島海岸駅前で自転車を分解し、ここでお別れのフユチャンと固い握手をかわし仙石線に乗り込む。仙台駅でゆっちからリクエストのあった「萩の月」をおみやげに買い、16時26分仙台発の新幹線はやて30号で帰京。 観光に被災地見学、旧友との再会と盛り沢山で有意義な旅行であった。 【走行データ】
(1)旅行の計画 四寺回廊とは、松尾芭蕉が奥の細道で訪れた四大名刹(中尊寺・毛越寺・瑞巌寺・立石寺(山寺))を廻る巡回コースのことで、専用の朱印帳に4寺の朱印を集めると、記念色紙がもらえるらしい。2003年発足と歴史の浅い四寺回廊は何だか「ポケモンスタンプラリー」のように胡散臭く、中尊寺・瑞巌寺・立石寺に行ったことのある自分の食指は全く動かない。だが、いつもわがままを聞いてもらっているテルの願いだけに断りづらく、震災2年後の石巻視察を予定に追加してもらい当日を向かえた。
『やはり北国はまだ寒いねぇ。』 時折霧雨の舞う駅前広場で自転車を組み立て北上川沿いに約20キロ先の中尊寺を目指す。現地の爺さんの薦めで国道4号にルートを変更したり、雹(ひょう)に降られてコンビニに退避したりで思うように距離が伸びず、計画より1時間遅れの11時頃(2011年に東北地方初の世界遺産となった)中尊寺に到着。麓の駐輪場に自転車を停め、バスツアー客で賑わう参道を、多くのお年寄りと肩を並べて息を切らせて登る。 『独身時代に来た時は軽々登れたんだけどなぁ。』 本堂はかつて見た時と全く変わらぬ印象で、体力が落ちて劣化した自分とは大違い。前回来た時からの約20年の間に変わったもの、変わらないものに思いを馳せていると、四寺回廊の受付窓口を見つけたテルが、専用朱印帳代(1000円)と朱印代(300円)を支払い、受付の婆さんに聞かれてもいない自転車旅行の主旨を嬉しそうに語っている(笑)。 『俺はお寺の策略には嵌らない!』としばらくは冷めた視線を送るも、「自転車で廻るならきっと尚更御利益がありますよ!」という婆さんの甘い言葉や、仏壇に飾れる3枚折り仕様の高級感漂う朱印帳、着物の爺さんが毛筆で丁寧に拝観記録を記す様子に気持ちがゆらぎ方針を撤回。 『僕も朱印集めてみようかな。』 自分もまんまと策略にはまり中尊寺を後にした。 平泉の考古学的遺跡群として中尊寺と共に世界遺産に登録された毛越寺までは自転車で約10分。こちらは拝観料500円がかかるため、拝観をして朱印をもらうには800円が必要となる。 「何だよ、抱き合わせ商法のぼったくりバーみたいだなぁ。」 と文句を言いつつ朱印をもらい、計画の遅れを取り戻そうと先を急ぐ。 一関駅近くの交差点で信号待ちをしていると「たいやき120円」の看板。甘い香りに誘われ、昭和初期製と思われるレトロなラジオが置かれた古き良き時代の懐かしさ漂う店内で焼きたてのたいやき(120円)とセルフサービスのお茶を飲みながらひと休み。 「疲れて冷え切った体にたいやきは格別だねぇ。」 かつて芭蕉が通った国道342号(一関街道)のなだらかな峠道にて宮城県との県境を越え、悠々と流れる北上川沿いをしばらく南下し、東北の明治村と言われる登米市中心部に到着。「旧校舎のテーマby安全地帯」のメロディーが脳裏に流れるのを感じつつ、和洋折衷の旧登米高等尋常小学校校舎内をのんびりと散策。この旧校舎裏にある鉄筋校舎から響く子供達の声が印象的だ。 ふと、旧校舎一室の壁にずらりと並んだ歴代校長の肖像画や写真に目が留まる。その個性的な面々を一人ひとり眺めるうちに、古代からずらりと並ぶ人々の列のほぼ最前列に自分が並ぶ構図(最前列が息子、2番目が自分、3番目が父で、現存するこの3人のみにアクティブマークが付いている)が脳裏に浮かぶ。 時間はもうすぐ16時、せっかく登米に来たのだからご当地メニューを食べようと大正11年創業大衆食堂「つか勇」で「油麩丼」と「はっと汁」(Aセット)を注文。空腹で飢えた僕らには、肉の代わりにお麩を使った「油麩丼」や水団のような「はっと汁」にはどうしても物足りなさを感じてしまう。 「この汁があまりの旨さに御法度と言われてたってどんな時代だよ?亅 はっと汁の名前の由来に、豪雪のため食材が揃わぬ質素な土地を勝手に空想しながらありがたく完食。 店内にはB1グランプリのポスター等が飾られており(中央写真、浜ちゃんの左でピースするのがこの店のご主人)、数年前のB1グランプリ厚木大会で油麩丼を食べたことを伝えると、寡黙だったご主人の瞳に炎が灯り、「油麩丼の成績は第1回大会の途中経過12位がを最高位にその後はあまり奮わないことや、九州大会の八戸せんべい汁優勝を羨ましく思いつつ組織票関与を疑問視していることなど」をイキイキと話してくれる(情熱に満ちた様子に、厚木大会でシロコロなど数時間待ちの人気メニューの列に並ぶ気になれずに比較的空いていた油麩丼の列に並んだことは話さなかった(笑))。 「満腹でもう走る気しない」という言葉とは裏腹に北上川沿いを快調に飛ばすテルを追いかけていると、被災地が近づく程に材木を積んだ車やゆっくりと走る工事車両が目立つようになる。山の木々が枯れている様子に気が重くなりつつ石巻市内に入ると街は多くの人や車で予想外の賑わい。どうやら震災を逃れたこの内陸部に復興需要が集中しているようだ。 【1日目 走行データ】 (3) 2日目その1(石巻〜松島区間) 復興商店街や石巻駅、ロボコン・ゴレンジャーなど馴染みのある石ノ森章太郎キャラクター像が点在する石巻漫画ロードを通り、石巻を一望できる日和山公園を目指し、心臓破りの急坂を一気に駆け上がる。 『うわっ、これは酷いねぇ。』 海側には東日本大震災の津波被害による目を背けたくなるような痛ましい光景が広がっている。瓦礫は片付けられてはいるがまだほとんどが更地のままで、この場所がかつての賑わいを取り戻すには、相当な時間がかかりそうな印象を受ける。 単身赴任先の仙台から原付で駆け付けてくれた冬チャンと公園内で落ち合い、東京ではとっくに散ってしまった桜を堪能。眼下北上川中州に見える白い宇宙船のような建物「石ノ森萬画館」に行ってみる。 今春リニューアルオープンしたばかりの館内に入り、切り込み隊長のテルに便乗して003のお姉さんと写真を撮るも、自転車で来た今回は被災現場の現状を自分の目で確かめるのに時間を割こうとそそくさと退館(笑)。 西へ向かう国道45号線は厳しい向かい風。路肩を低速で走ってくれるフユチャンの原付を風よけにトレイン走行でこれを乗り切り、去年の福島〜松島サイクリングで訪れた松島のおさかな市場に到着。 つい数日前に来たばかりのような気がする店内でマグロカルビ丼を食べながらこの1年間の出来事などを報告し合う。 腹も膨らみ津波の影響で参道片側の松の木が枯れてしまって痛々しい参道を歩き瑞巌寺を参拝、四寺回廊3つ目の朱印をゲット。 (4)2日目その2(面白山高原〜山寺区間) 『おおっ、面白山高原駅から山寺まで走る手があるぞ!』 宮城と山形の県境近くにある「面白山高原駅」で途中下車すれば、紅葉川渓谷沿いに山寺まで抜けられそうだ。途中地図アプリの表示に点線の部分があり道が繋がっているかが不安ではあるが、『面白山って名前だからきっと面白いよ!』と安易な理由で切符を清算、ぶらり途中下車の旅。 面白山高原駅で降りたのは僕らだけで、電車が過ぎ去ると風と川(藤花の滝)の音しか聞こえなくなる。無人の改札を抜け駅前で自転車を組み立てるが、人どころか車すら全く通らない。普段の生活とかけ離れた事態に自然と笑顔がこぼれだす。 日本で唯一鉄道でしか行けないスキー場として有名な「スノーパーク面白山」の廃墟化した様子を横目に冬場は通行止めとなる渓谷沿いの林道を進む。もう4月下旬だというのに路肩には雪が積もったままで、山の表面が雪で白くなるという「面白山」の命名由来に納得。 世界トップクラスの森林率の国に生まれたことを感謝しつつ森の中を進むうちに道端に小さな滝を発見。『雪解け水を飲んでみようよ!』と水しぶきを浴びつつ無味無臭の水を汲んで飲む。東北地方には八幡平や奥入瀬渓流など大自然を売りにした名勝が数多くあるが、これら観光地よりよっぽど大自然を味わえると軽やかな足取りでさらに寂しい山奥へと進んでいく。 山道から渓谷をのぞき込むと、かつての旧道やガードレールが朽ち果てているのが見え、かつてナンバー付きオフロードバイクで廃道ツーリングにはまっていた頃の廃道マニアの血が騒ぎだす。 オフロードバイクで山奥に入ると感じる「もしここでバイクが壊れたら遭難してしまうかもしれない」という不安や心細さは、自分にとってはまるで「片思いの苦しさ」のように胸に突き刺さり、甘く懐かしいせつなさのような感情が蘇る。この感覚の中毒となり、かつて足繁く林道に出掛けた時期があったが、今回「オフロードバイク」ではなく「ローカル輪行サイクリング」という新たな手法で(オフロードバイクが無くとも)あの感覚を味わえたのがうれしくてたまらない。 やがて暗闇に包まれ、雨までポツポツと降りはじめる。「片思いの苦しさ」が「失恋の辛さ」にも似た感覚に移ろい行くのをニヤニヤしながら噛み締めるうちに人家の灯りが見え、(結局人や車、バイクに全く会わぬまま林道を抜け)高砂屋本館に到着。 この日は土曜だというのに宿泊客は僕たちだけで、宿のおかみさんは山寺巡りの方法や夕食メニューについて丁寧に説明してくれる。昨日泊まった観光客でにぎわう大手ビジネスホテルとは対照的な様子に、両者を比較したり個人経営旅館の厳しい現実について語り合いつつ貸切りの大広間で夕食。豪華とは言えないが思う存分体を動かしたためかとても美味い。おひつ満タンの山形産コシヒカリを2人で競い合うかのように3回ずつおかわりをして食べ尽くし、心も体も満腹状態で風呂に向かう。灯油ストーブを付けてもなかなか暖まらない脱衣室の寒さに北国を感じつつ汗を流して眠りについた。 【2日目 走行データ】 (5) 3日目(山寺〜帰京) 高校時代テルとはよく勉強そっちのけで夜中まで語り合った。2人で夜の魔法にかかり、「俺は明日〇〇に△△する。」『やるねぇ。じゃあ俺は□□しよう!』と前向きな一歩を誓い合うも朝日が昇るとともに勇気や気概は萎んでしまい、お互い行動を起こせず、自分達の弱さに傷をなめ合うお決まりのパターンを繰り返していた。 お互い家庭を持ち、こうして夜通し語り合う機会は無くなっていたが、輪行旅行(自転車の健康的なイメージ)が「男2人旅」のハードルを下げてくれ、夜中語り合う時間が復活。 翌朝、目を覚ますと地面にうっすらと雪が積もっている。これでは自転車には乗れないと自転車を輪行袋にしまい、貸切の大広間で朝食を食べ、おかみさんに傘を借りて歩いて5分の立石寺へ。 朱印受付はまだ開いておらず、このところ体の劣化が気になると招福布袋尊の体じゅうをなで回してから根本中堂でお参り。 山頂(奥の院)を目指す登山道入口には「石段を一段二段と登ることにより私達の煩悩が消滅すると信仰されている修行の霊山です。」と書かれた看板があり、清く正しい心を取り戻そうと千十五段の石段を1段ずつ踏みしめながら登りはじめると、テルが横を1段抜かしで颯爽と追い抜いて行く。 『オイオイ、煩悩の塊の君も1段ずつ登った方がいいんじゃないか(笑)?』 仁王門を過ぎると雪がいっそう激しくなり、浄化されていく心の中を見ているかのような神妙な気分。山頂(奥の院)から見渡す下界はまるで真冬のような銀世界で、昨日満開の桜を眺めていたのが嘘のよう。 「閑さや雪にしみ入るテルの声」 う〜ん、酷い盗作(苦笑)。 五大堂からの景色は靄で視界がさえぎられて真っ白。段差が分からなくなる程に積もった雪に足を取られぬよう下山すると、意外にも下界も雪模様。考えもしなかった雪景色の中で四寺回廊最後の朱印と「忍」と描かれた色紙を授かり四寺回廊終了。 帰り道、この日66年ぶりに4月下旬の積雪が観測された仙台駅で小学校同窓生と会う約束をしたというテルにお邪魔虫ながら同席させてもらい、偶然の重なった一期一会の出会いを楽しみつつ昼食。伊坂幸太郎の小説「アヒルと鴨のコインロッカー」の映画で使われたコインロッカーに立ち寄り東京行きの新幹線に乗車。爆睡するテルを横目に「忍」の色紙の解釈に悩みつつ(耐え忍ぶとは?忍者?ストーカー?)家路についた。 これまで輪行旅行は、事前に立てた計画 を忠実に実行に移し、観光を楽しみつつ長い距離を走破する達成感を味わうスタイルであったが、今回は荒れた天気(晴・雨・雹・雪)のため計画したルートを走り切れず達成感はいまいちであった。しかしながら、予想外の展開はその分新鮮な感動を与えてくれ、結果的にはいつも以上に印象に残る旅となった。(筋書き通りにいかない)旅ってまるで人生みたいだな。 【走行データ】 【To be continued.】 |